一語履歴
人間としての円熟した生き方 鈴木秀子(文学博士) 私のもとに最近、七十代の男性から長文の手紙が届きました。 この男性には子供の頃から腋臭(えきしゅう)症の持病があり、 学校の友達も「臭い、臭い」と言って男性を遠ざけるようになっていきました。 このため男性は大人になってからも強いコンプレックスを抱き続け、 何をやるにも消極的だったといいます。 就職するに当たって選んだのは、人と距離を取りながら働くことができる警備の仕事でした。 会社の門に立ち、人や車が出入りする様子を見ては問題が起きていないかを確認する日々。 誰とも話すことがなく寂しさを感じるようになった男性は、ある時から通る人に向かって 「おはようございます」 「お疲れ様でした」 と声をかけるようになりました。 遠くから挨拶を届けるには、大声を出さなくてはいけません。 それでも大半の人は男性を振り返ることなく、挨拶がまるで聞こえなかった かのように通り過ぎて行きましたが、時々、挨拶を交わしてくれる人もいて、 それが男性の生きる力となっていきました。 晴天の日も雨天の日も、男性はそうやって通りかかる人に大きな声で挨拶をし続けて、 やがて退職の日を迎えます。 目立つこともなくとても地味な仕事だとしても、 男性はこの仕事をやり遂げたことにとても充実感を覚え、満足していました。 退職後、故郷に帰った男性は そこで農業の仕事を始めます。するとある日、 長年警備をしていた会社の社長から電話があり、こう伝えられたといいます。 「あなたが退職した後、何人もの社員から 『あの警備員さんは もういなくなったのですか』 『警備員さんの姿が見られなくなって、とても寂しい』 といった声を聞きました。 あなたの存在が我が社にとって とても大きかったことに、 私も今更ながら気づかされました。本当に感謝しています。 そのことをお伝えしたくて 連絡を差し上げたんです」 返事はしてくれなかったとしても、仕事で疲れていた社員たちの心を 男性がいかに明るくし、勇気づけ、励ましていたか。 社長はその具体的な例を いくつも挙げながら、感謝の思いを伝えました。 男性はいつしかこの会社にとって、なくてはならない存在になっていたのです。 喜びを伝える男性の手紙を読みながら、私も思わず目頭を熱くしました。 男性は何か目に見える功績を 残したわけではありません。 しかし挨拶という 地道な努力を コツコツと続ける中で、社員の心に明るい火を灯し続けました。 人間としての円熟した生き方とは、まさに この男性のような姿ではないかと私は思うのです。 |
2026.10.11 |
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